『』
雑踏とは無縁の、静かな土地で育った彼は、会話の途中でも構わず耳を塞ぐのが癖だ。時々雑音と声の区別がつかなくなるんだ、と笑って話していた。
都会育ちとはいえ私も、深夜の静寂くらいは理解できる。しかし私には、彼のような症状はない。現に彼のアパートだって、夜になれば沈黙が訪れる。


深夜。突然の着信音。明日のために床についていた私はにわかに苛立ち、発信者を確認して冷静を取り戻した。
「どうしたの?」
スーっと空気の流れが聞こえた。
「もしもし?」
ガツと何かがぶつかりあう音。彼に何かあったのだろうかと、部屋着のまま飛びだそうとした瞬間。
「何も、聞こえなかったか?」
囁き。
「何も。何かがぶつかる音なら、したけど」
「そうじゃない」
畳みかける声がくぐもっているのは、布団を被っているせいだろうか。彼が実家に住んでいた頃、隣室の両親を起こしてはいけないとよくそうしていたのだ。

しかし今、何のためにそうしなければならないのか、推測出来ない。
「何が聞こえるの?」
「話し声」
隣の部屋は?と言いかけて言葉を飲み込んだ。アパートの壁は、そんなに薄くないはずだ。隣室の声など、誰も住んでいないのではないかと思うほど、物音さえ聞こえなかった。


「話し声が聞こえるんだ」
カチリ、と電気をつける。
生活の音は、どこからでも発生する。アパートの前で誰かが話し込んでいれば、その声が彼の耳に届くことだってあるだろう。
私はため息をついて、再びベッドに身を委ねた。
「いつから?」
「一時間くらい」
「眠れそうにない?」
「うるさくて、仕方がないんだ」


もしかしたらこれは、深夜に私を呼び出すための茶番ではないだろうか。適当な理由がなければ、こんな時間に外出させられないからと。
「耳栓したら?」
「無駄なんだ」
「どうして?」
「そんなもの、無駄なんだよ」
囁きのまま語調が強くなり、布団を叩く音が聞こえた。怒らせたと思いつつも、その原因が見あたらず謝る気にもなれない。
「俺、どうなっちゃうんだろう」
譫言のように、同じ台詞を二回繰り返した。


「耳を閉じてもだめなんだ。ずっと聞こえて。まるで、頭ン中で誰かが喋ってるみたいなんだ」


俺、どうなっちゃうんだろう。
まるで泣いているような声だった。




06.2.20